初の外国人バッキーハリス
日本の助っ人の歴史はバッキーハリスから
戦前の1937年、ドラゴンズの前身、名古屋軍のGMだった河野安通志が、バッキーハリスを日本に招きました。
ここに初の外国人招へい選手バッキーが誕生しました。
日本のプロ野球は1951年に巨人に来た与那嶺要のプレーにショックを受けましたが、このハリスは戦前にその役割を担っていました。当時も、プロ野球チームの強化には、外国人を獲得するのが一番手っ取り早かったのです。まさに歴史がハリスを来日させることになりました。
捕手の外国人
このバッキーハリスは、捕手でしたが、メジャーではなくマイナーリーグの経験しかありませんでした。
しかし、投手のリード、野手の守備陣形、もっとも野球に精通しなくてはならない重要なポジションに、外国人が着くことに意味がありました。
投手に顔を向けたまま、1塁へのけん制をしてみたり、片言の日本語で「モシモシ、アナタ、オカシイヨ」「モモタロさん、モモタロさん」などと話しかけて打者を苦笑させ、巧みなリードで投手を引っ張りました。
このささやき戦術は、当時の日本選手をさぞかし驚かせました。
野手初のMVP
ハリスを招き入れた河野安通志が、名古屋軍を去り、新球団イーグルスを設立すると、バッキーを引き抜き移籍。
この2年目のシーズンに大きな力を発揮しました。
この年は、タイガースが圧倒的な強さで優勝しましたが、イーグルスは5勝2敗でこのタイガースに勝ち越すと、ハリスは3番を打ち、打率.380をマークして1937年のMVP(最高殊勲選手)に選ばれました。
日本プロ野球のMVPの受賞は1937年の春から始まっていますが、第1号はあの沢村栄治。ハリスは第2号になりますが、野手では初めての受賞です。
ちなみに日本人の野手第2号は苅田久徳でしたが、外国人に先んじてしまったのです。
頭脳的なエピソード
このハリスの頭脳的なプレーで語り草なのは、1938年9月10日の阪急戦での出来事。
イーグルスの攻撃で2死満塁の場面。
相手投手は、森弘太郎でしたが、バッターへの配球を考えているところへ、サードランナーのハリスが「森さん、そのボール変ね、ちょっと見せてよ」と声をかけると、投手の森はハリスの方へ転がしました。しかし、ハリスはそのボールに構うことなく、スタコラ本塁へ走り出しました。
このハリスこそ、野球とは違うベースボールを日本人に教えた人物なのです。
戦争の影響で帰国
しかし、戦局の悪化で、ハリスは引退を余儀なくされます。
後楽園球場で引退試合を行いますが、「さよならとは言えない」程の落ち込みだったそうです。
戦争中はフィリピン・レイト島で捕虜の通訳をしていましたが、その時に阪急の捕手から言葉をかけられてその場の雰囲気が一変したと言います。
戦後に招待
1976年に来日して、後楽園球場で行われた日本シリーズを観戦し、藤村富美男、水原茂、千葉茂、川上哲治等と友好を深め、また、足木敏郎の招きで名古屋にも立ちより、鳴海球場跡を見学し、懐かしんだそうです。
最近の外国人の獲得はパワーヒッターが求められますが、戦前のプロ野球創世記は、ハリスのような、頭脳と技を兼ねそなえた人物が求められていたのです。その後、与那嶺、ダリル・スペンサー、ジョー・ルーツ、ボイヤー、などの頭脳派、外国人が来日しプロ野球は発展していきました。
ドラゴンズ在籍期間 1年間 1936年 打率 .327 本塁打7本 打点25
参考文献 昇竜の軌跡 ドラゴンズ70年 ベースボールマガジン社