今中慎二を追いかけて
若き今中慎二の投球には魅力がありました。糸トンボの様な細い体から、繰り出す速球と、100キロ台のスローカーブで打者を圧倒し、奪三振を奪う。
1993年には249イニングを投げ247個の三振を取った年がありました。もう一つの特徴は、意外に知られていませんが与死球が少ないことで生涯12年間で15個しか与えていません。1年で1個以下なのです。つまり、正々堂々と勝負したい気持ちが強かった投手でした。
今中慎二の初登板は、札幌丸山球場でのジャイアンツ戦。この試合は、生中継で見ていました。高卒1年目のルーキでしたので、更に体が細く、突っ立って投げるような、重心の高いフォームでした。ストレートも速さは感じず、カーブもありましたが、どろんとした普通のカーブで、全盛期の様なスローカーブではありませんでした。
スローカーブ誕生
この独特なカーブは、ナゴヤ球場でのタイガース戦で、ピッチャーゴロを捕球した時に、打球を捕り損ね、左手を骨折。長期離脱した時に、復帰に向けてキャッチボールをしている時に生まれました。
あわや完全試合
全盛期の今中慎二のピッチングを、どうしても生で見たくて、ドラゴンズの投手のローテーションを予測し、横浜スタジアムまで出かけたことがあります。
試合開始前の場内アナウンスで、今中の名前が告げられた時はホットしました。もし、違っていたら何のために来たのか分かりませんから。
横浜ベイスターズの投手は、大家でした。そう、メジャーに渡ったあの大家です。彼は高卒ルーキーのそれも記念すべきプロ初先発の試合でした。いきなり、1番立浪が先頭打者ホームラン。まさにプロの洗礼を浴びせました。
対する今中は予想以上の投球で絶好調。4番のブラックスもファウルが精いっぱいの素晴らしいストレート、時折、投げるスローカーブで打者を圧倒。何しろ、7回2死まで完璧な投球でパーフェクト。もしかして本当にやるんじゃないかと期待しました。そう思うと、打たれるもので、案の定3番ローズにバックスクリーンに一発を浴びました。それでも難なく完投勝利を挙げ、大満足で球場を後にしました。
エース今中の唯一の弱点
今中慎二の唯一の弱点は、大一番の試合に弱かった事でした。あの、1988年の10.8ジャイアンツとの最終決戦での敗戦。優勝に向けての大事な試合、ヤクルト戦で9回2死、追い込みながら池山から痛恨のホームランを打たれたこともありました。
速球投手の宿命か、球数も多く、完投するときは、いつも球数は140球ほど投げていました。そもそも完投も多かったこともあり、勤続疲労の影響で生命線の肘を故障、手術を重ね復帰しましたが、全盛期の様な投球は戻りませんでした。
寂しい速球投手の宿命
復帰後の今中慎二を長良川球場で見ましたが、140キロを超えるボールも多くありましたが、空振りが取れず、もがき苦しんでいるようでした。何の意図があるのか分かりませんが、ユニフォームもストッキングを膝近くまで上げ、クラッシックスタイルで望んでいました。
1990年代のドラゴンズは、左腕山本昌、今中慎二の2枚看板で、毎年、優勝争いをするもシーズンが終わるといつも2位止まり。同時期に、郭源治、小島弘務、鹿島忠、打者もパウエル、大豊、山崎など、そうそうたるメンバーもいましたが、緻密な野球が出来ずに優勝を逃していました。 そして、山本昌がいくら勝ち星を重ねても、それでもドラゴンズのエースは今中慎二でした
青竜研究会