高木守道さんの思い出

私の知る現役時代の、高木守道はもう晩年でしたが、盗塁のセンス、守備は抜群でした。それでいて、決してホームラン打者ではないのに、4打席連続ホームランという離れ業も。そして、引退試合の東西対抗戦で、江川卓からホームランを打つなど、華麗な一面もありました。ベテランでも三拍子揃った名選手でした。

野球関係者でもなく、マスコミ関係者でもない私は、守道さんと2度、お会いしたことがあります

。1度目は、名岐ボウルというボウリング場でした。

小学校の5年生だったので、どうしてこの場において、ドラゴンズの選手と一緒にボウリングをしたのかは分かりません。私は、石井昭雄選手と一緒にボウリングをしました。会場の左隅に、細長いテーブルが置かれていましたが、高木守道さんが1人だけ、黙々とサインをしていまいた。そうです、たった1人だけ…。他の選手達は、自由に過ごしていました、たぶん、誰もサインに時間を取られたくないのでしょう。そのサインをする姿が印象的でした。

2度目は、私が岐阜のホテルのレストラン勤めていた時、に食事にいらっしゃいました。

その時は、岐阜のゴルフ場の支配人をされていましたが、ゴルフ場の女性スタッフと一緒に来店されました。その時に高木監督が、第1次政権の時にお辞めになる、最後の試合のエピソードを話してくれました。

監督最後の試合で前代未聞の




実は、1995年6月2日高木監督はこの最後の試合に前代未聞の退場となっています。

この試合は、甲子園の試合でしたが三重テレビで中継をして、私もこの場面を見ていました。タイガースの久慈選手(まだドラゴンズへ来る前)が1塁戦にゴロを打ちました。この打球を1塁手が簡単に捕って1塁ベースを踏み誰もがアウトと思いました。が、しかし、この打球を塁審の審判がファウルと判定。久慈の足に打球が当たったと判断したのです。

烈火のごとく高木監督が登場し、猛抗議。何しろ、「打者の久慈が走っているから体に当たっているわけがないだろう」とアウトの主張。確かに高木監督の言う通り。この場面は、テレビのVTRで見ても、確かに久慈の足には当たっていません。明らかにミスジャッジ。しかし、高木監督は引き下がらずに塁審を小突いてしまいました。そこで退場となったのです。この場面のやり取りについて、塁審も「俺も今日で辞める」と言ったそうです。「いや、お前さんは辞めんでいい、俺が、退場になるだけでいいから」と言ったそうです。

その後、高木監督は落合監督の後を受けて、2度目の監督に就任しますが、優勝は出来ませんでした。あの、10.8のジャイアンツとの最終決戦も引き立て役に終わり、投手温存の批判も浴びました。

寡黙であり、瞬間湯沸かし器の様な、高木監督の人物像。

しかし、実は、人に親切で思いやりのある高木守道。引退後もテレビ番組では選手に対する、熱いメッセージと辛口採点。特に高木チェックは厳しすぎで面白かった。

監督としては成功しませんでしたが、私の中では、ミスタードラゴンズは立浪和義ではなく、高木守道なのです。

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