わずか1試合出場の足木敏郎

選手出場はわずか一試合のみ。1953年に豊川高校からドラゴンズに入団。一試合、右翼の守備についただけ。しかも、試合後に無登録だった事が判明し、球団は厳重戒告されました。翌、54年わずか2年余りで引退。

55年からは、中日のトレーナーとなり、マネージャを経て、広報を担当、渉外担当となり、優良な外国人を獲得しました。

年齢的な事もありましたが、落合政権の構想に合わず、退職を促されたとみられます。

足木外渉とレストランでお会いした想い出

某名古屋のホテルの中国料理レストランで仕事をしていた時に、偶然店にいらっしゃいました。私は、ヒーローインタビューの通訳でたびたび、テレビで拝見していたので、しかも案内するときに声を聞いてすぐに本人と分かりました。私にとってはVIPでしたが、他の人は誰も気づくはずもなく、有名が来店されたら個室に案内しますが、通常のテーブル席にご案内しました。

2人で来店されましたが、もう一人の方は審判員の方でした。

この頃は、他にも、大越総務、法元スカウトなども来店され、自分ながら良く、「裏方まで分かるもんだなあ」「好きな事って自然に頭の中に入るもんだ」と自らを感心していました。(笑)今では全く出来ませんが…。

自分だけのスクープ

その時に大事な事を聞きつけました。




2人の会話の中で、タイロン・ウッズがドラゴンズにやって来る話をしていたのです。当時タイロン・ウッズは横浜ベイスターズの4番打者で、ホームラン王を2年連続で獲得していました。片や、ドラゴンズの4番はアレックスで、守備には定評がありましたが、ホームラン打者ではなく、また、その前後を固める打者も長打力がなく貧弱でした。4番としては物足らない成績でした。現に、その年は、西武ライオンズとの日本シリーズで、カブレラ、和田一浩に手痛い一発を浴び、惜敗していました。

そんな、大砲が我がドラゴンズにやってくるのです。

今では考えられませんが、当時はインターネットもまだそれほど、普及しておらず、タブレット端末、スマホもありません。ましてやSNSなんてものはありませんから、情報は私だけのものです。まあ、私も、この情報は他の人には話さず、親父に話をしただけでした。

しかし、タイロン・ウッズ獲得は、自分にとって大スクープでした。

その夜は、なかな眠られず、頭のなかで来季のスタメンオーダーをずっと考えていました。

そう、あの頃、私はまだ若かったのです。

                  青竜研究会 

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