追憶の大洋ホエールズと川崎球場

星野仙一のピッチングを生観戦

子供の頃、中日対大洋戦をナゴヤ球場に観戦に出かけた事がありました。昭和51年のことです。席はバックネット裏の2階席。この席はグランド全体が見渡せて、通常のバックネット裏よりも見やすい印象がありました。

先発は、円熟期の星野仙一。前年にリーグ優勝して先発に、リリーフに大活躍した翌年のことです。まだ、内転筋を痛める前なので、球威はまだ衰えておらず、コーナーキレの良いストレートを投げ込み見事な投球をみせました。

個性的な選手

バットを寝かせて構える1番センターの中塚選手。そういえば中日の4番マーチンも寝かせて構えていました。2番は、江尻選手、不動の4番は松原誠で、両足を土に着くほど、延ばして送球を受ける1塁守備も一流でした。キャッキャーの福嶋(娘はプロゴルファーの福嶋晃子)は打撃に定評がありました。セカンドはライオン丸のシピン。なぜかヘルメットをかぶって守備に就いていました。他にも、ボイヤー、時期が違いますが極端にバットを短く持ったミヤーンと言う首位打者を獲った外国人選手もいました。みな懐かしい選手ばかりです。

話がそれましたが、何と言っても、山下大輔の守備に見とれました。何事もなく、さらりと1塁に投げ簡単にアウトにするのです。それが、不思議に必ず走者が1塁に到達する1歩手前でアウトにするのです。まさに名人芸、ゴールデングラブ賞の常連だけの事はありました。

当時の大洋ホエールズには個性豊かな選手がたくさんいました。

試合は、中日の伊藤泰憲選手が、レフトスタンド上段へ飛び込むスリーランホームランを放ち、星野仙一が完封してドラゴンズが快勝しました。

テレビじゃ見られない川崎劇場

大洋ホエールズが、横浜ベイスターズとなり、フランチャイズが横浜球場に移ると、ロッテオリオンズが専属で試合を行うようになりました。

ロッテ球団の不人気、球場、設備も古い、駅からのアクセスも良くないこともあり毎試合閑散としていました。

フジテレビの珍プレー好プレーで、何度もテレビで紹介されていますが、カップルがキスを交換したり、球場内にグローブ、ボールを持ち込んでスタンドをはさんで、キャッチボールをしたり、挙句の果てに、流しソーメンの竹、器を持ち込み、ソーメンを流して食するなど、通常では考えられないローカルな野球場でした。「テレビじゃ見られない川崎劇場」と称してプロモーションを展開していた時期もありました。

伝説の試合1988年の10.19ロッテ近鉄戦

この試合だけは熱気に包まれ、観客も球場の外側まで溢れ、樹木や照明搭に登る人、民家の屋根から観戦する人もいて大賑わいをみせていました。

そして、テレビ朝日の看板番組ニュースステーションを中断してまで、急遽、この試合をテレビ中継した程です。

1988年のこの年のパ・リーグの優勝争いは、最終日までもつれました。首位にたった西武は全日程を終え、近鉄バッファローズの残りの試合、ロッテとのダブルヘッダーを残すのみとなり、連勝するしか優勝の道が残されていません。

舞台は川崎球場。第一試合は、初回から愛甲に2ランホームランが飛び出し、近鉄が追う苦しい展開でした。しかし、終盤の8回に村上隆行のタイムリー2塁打で同点となりました。しかし、規定で引き分けでは第二試合に進めずシーズン終了となります。

9回、2死2塁の土壇場で登場したのが代打梨田昌孝。迎える投手は元、ドラゴンズのリリーバー牛島。梨田は引退を発表して、選手生活最後の打席がこの大事な場面となりました。 

梨田昌孝最後の打席

牛島の初球を叩くと、詰まりながらもセンター前にヒットとなり、ホームでクロスプレー。間一髪セーフ。走者の鈴木貴久を中西コーチが抱きかかえ転がり込んだシーンは胸を打ちました。

第二試合は、近鉄がリードするも、連投の阿波野秀幸が終盤に高沢秀昭から同点ホームランを浴びるとそのまま引き分け。惜しくも近鉄の優勝は無くなりました。

10回の表に点が入らず、引き分けのまま、近鉄ナインが裏の守備に就くむなしさが感動を呼びました。

そんな川崎球場を訪問

JR川崎駅、京急川崎駅から東方面、市役所側に歩くこと10分。市役所を越えると照明搭が見えてきます。当時の照明搭が今も残っています。私は子供の頃からこの照明搭を見ると心がわくわくしてきます。ナゴヤ球場へ出かける時も笹島交差点を越えると照明搭が見え胸が高鳴ります。

広い通りから照明搭を目指し北に向かうと、川崎球場が見えてきます。名称は富士通スタジアムに代わり、ラクビー専用スタジアムとなっています。

残念ながらグランド内に入る事は出来ませんでしたが、スマホを手に取り中を覗き込んで写真を撮って来ました。人工芝を敷き詰めたグランドに変身を遂げていました。

ライトスタンドの短い理由

バックスクリーンの裏は、当時の面影が残っていました。きっとここで外野席のチケットを販売していたのでしょう。

グランドの東側は、富士見公園となり市民の憩いの場となっています。ぐるっと北側に廻ると、民家が密集しています。なるほど右中間のスタンドへの距離が短くなるのは理解できます。ここへ全盛期の王貞治が何度も場外ホームランを打ち込みました。落合博満もこの恩恵を受け、右中間へのホームランを得意とし、三冠王となりました。

バックネット側は、すべて改修されていて、昔の面影はありません。

しかし、この場所で、プロ野球の歴史に残る熱き戦いが行われていたのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です