ドラゴンズ史上一番速い球を投げたのは誰か?昭和編

まずは杉下茂

フォークボールが代名詞の杉下ですが、ストレートにも定評がありました。ライバルの金田正一氏は、杉下さんの直球は剛速球で、上半身の力でねじ伏せて来る、ものすごく速かったと回顧。唯一、日本シリーズに出場した1954年は、初戦に登板し12奪三振。得意のフォークボールは初回に数球見せ球に使っただけだったと言います。

本人曰く、フォークボールはまやかしのボール、あまり使いたくない。速いボールがあってのフォークボール。

権藤博

ドラゴンズの投手を語るにはこの男は欠かせません。

軸足の右足をかかとから上げ、全身をバネのように使い、投げ込む快速球で、全盛期の王貞治、長嶋に向って行きました。初年度、35勝で310奪三振を奪いましたが、長嶋には.448厘と打ち込まれ三振は1つも奪えなかったという。

酷使の影響により実質の活動期間は3年足らずで、雨、雨、権藤、雨、権藤は当時、流行語になりました。

大学時代は速球派の星野仙一

星野仙一はプロ入り後、すぐに右肘を故障、内転筋も負傷して速球投手というイメージはありません。しかし、大学時代は直球にもスピードがあり、キレの良いカーブの2種類で抑え込んでいました。

この時代の速球王と言えば鈴木孝政は忘れることが出来ません。

高校時代は江川と双璧

鈴木孝政は、高校時代に千葉に江川より速い投手がいると噂をされていました。

2年目の1974年には、その快速球で先発に中継ぎに活躍し、ドラゴンズを20年ぶりに優勝へ導きました。まさにキレの良い快速球で、重いボールで詰まらせるのではなく、空振りで三振を奪うストレートを投げていました。3年連続セーブ王に輝きましたが、この酷使がたたり、晩年は先発に転向。ストレートの球速を投げ分け、軟投派として見事復活。プロ野球の歴史に残る速球王です。

20番を背負った最後のエース

小松辰雄は鈴木孝政とは違ったストレートを投げていました。剛速球タイプで2年目に、リリーフとして頭角。当時は、スピードガンの申し子と呼ばれていました。小松辰雄の出現で、ナゴヤ球場のレフトスタンド後方に、スピード表示がされる、電光掲示板が設置されました。若い頃の小松は、打者と勝負する前に、このスピードガンと戦っていたようです。

先発転向後は、若い頃の馬力は失っていましたが、エースにふさわしい投球で背番号20番を継承しました。

左腕エースの今中慎二

今中慎二は、糸を引くような伸びのある速球で、球界一の左腕エースに君臨。対する山本昌は134キロの回転の良い真っ直ぐを投げて、97年には最多奪三振のタイトルを獲得。

日韓スーパーゲームでの快投宣銅烈

宣銅烈の衝撃を受けたのは、日韓スーパーゲーム。156キロの快速球とキレのあるスライダーで落合博満、大豊泰明、宇野勝から連続三振を奪いました。さらに、驚いたのは体調が万全ではなく、来日前に軸足の右足首をねん挫をしたことが分かった事です。全盛期の江川以上という評判通りのピッチングをみせてくれました。

初年度は、日本の緻密な野球に苦しみましたが、2年目に実力を発揮、被本塁打が、1本もなく韓国一の実力をみせてくれました。

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