宮下昌巳とクロマティの大乱闘

1987年6月11日 熊本県藤崎台球場での中日対巨人戦での出来事。                            

この年、ドラゴンズはジャイアンツと熾烈なデットヒートを広げていました。その巨人が地方球場の熊本県藤崎台球場にドラゴンズを迎えての大事なゲーム。                                           巨人が4点リードで迎えた、7回裏2死2塁、巨人の攻撃。ここでバッターは、4番ウォーレンクロマティ。中日の投手は宮下昌巳が登板していました。

宮下は1983年ドラフト6位で日大三校から入団した若きセットアッパー。                        あの、大ちゃん(荒木大輔)フィーバで甲子園が揺れた年のドラフトで、実は同じ調布市立神代中学に通っていました。高校時代は甲子園とは縁がなく、最後の夏も決勝で惜敗。                                  一方の荒木大輔は甲子園で活躍し、遥か遠い存在でした。しかし、その口惜しさが野球を続けようと宮下のバネになりました。

球種は2種類

ルーキーの初年度のキャンプ1軍の紅白戦で投げ、そのままオープン戦も帯同し注目され、翌日の中日スポーツにも大きく掲載されていました。                                                  宮下の武器は、何と言ってもストレート。しかも、ドスンと来る重い剛速球。しかし、プロは甘くありませんでした。ずっと2軍暮らしで、当時の二軍監督、高木守道からは「人がおらんから」という理由でバッティングピッチャーばかり、そのまま、二軍のゲームにも投げさせられました。                                        当時の権藤博投手コーチから、フォークボールを教わり、MAX154キロの速球とフォークボールの2種類で3年目から頭角を現してきました。

星野仙一が監督に就任

宮下は4年目の1986年、星野監督に見いだされ、重要なセットアッパーのポジションを任されていました。

強気で内角に攻める

宮下の投じたストレートは、ジャイアンツの4番、クロマティの左わき腹に直撃しました。クロマティの弱点は内角でしたが、クラウンチングスタイルで構える為、内角には投げづらく、また、クロマティ自身も内角に厳しく投げる投手を威嚇していました。                                                       怒ったクロマティは、帽子を取って謝るようにゼスチャーを交えながらマウンドに向かってきました。しかし、宮下は行動に移しません、そこへ左顔面に右フックを見舞い、更にヘッドロックをかけたまま、倒しました。すると、両軍ベンチから選手が一斉に飛び出し乱闘がはじまりました。                                        この乱闘は、テレビ中継で観戦していましたが、星野監督が王貞治監督に向ってコブシをみせるシーンがあり、いかにも王監督に向けたコブシと思われがちですが、実は星野が「これはさすがにいかんだろう」というアピールでした。         騒ぎはこれだけにとどまりません、観客も乱入し、警察官、警備員も交じって大混乱。クロマティの退場を宣告しましたが、今度は1塁ベース付近で再び両軍選手がもみ合い、試合が中断。

実はクロマティは、2日前にも、江本晃一からも頭部をかすめる危険球を投げられており、そのうっぷんがたまっていたのでしょう。ちなみに、その数日後のナゴヤ球場の試合でもクロマティが、鹿島忠投手から打ち取られた後、マウンドを降りる時に自身の頭部を、人差し指で刺し「ここが違う」と侮辱しています。しかし、この時は何事もありませんでした。

クロマティと再会

結局、宮下はこの後、秋に肩を壊し、以降、自分のピッチングが出来ませんでした。西武にトレード。選手層の厚さから出番も少なく、1991年に引退。たった8年の短い野球人生でした。

余談ですが、その後の2013年、テレビの企画でクロマティと再会。笑顔で握手を交わしました。

しかし、昭和の野球、いや、この頃の星野ドラゴンズは熱かった。

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