大島康徳に捧ぐ
デビュー当時の大島選手は、とにかく魅力がありました。
「燃えよドラゴンズ」の歌にも出てくる「一発長打の大島君~」その言葉がぴったり。特に右中間方向へのホームランは、全盛期の落合博満のような打球の勢いがあり見事でした。。2塁を廻ったところで、ジャンプをする癖がありました。 「お父さんは、もうすぐここでぞ、ほら」と言い、笑っていました。
若いころの大島選手は荒削りな選手でした。派手な一発を放ったかと思うと、エラーをして活躍を帳消しにしてしまうこともしばしばでしたが、代打で登場すると、ここ一番での勝負強さは天下一品。そういえば、宇野勝さんも同じようあタイプでした。こんな個性豊かな若手が今のドラゴンズに欲しいですね。
中学時代はバレーボール選手で、高校から野球を始めました。大分県に身体能力抜群の選手あり、と評判でドラゴンズに入団。元々投手として入団しましたが、打者に転向。入団三年目から頭角を現し、74年のシーズンに準レギュラーとして1塁手、左翼、右翼を守り20年ぶりのリーグ優勝に貢献。 球団から将来性を認められていて、長嶋茂雄の引退試合で花束を渡したのも大島選手でした。
その後、1974年の日本シリーズでも持ち前の勝負強さで、第6戦の6回に村田兆治から同点のホームランを放ちました。8年目には代打ホームラン8本の日本記録を樹立。通算の代打ホームラン20本は歴代2位の記録。
活躍は、何故か隔年ごとでしたが、79年にはホームランを36本放ちレギュラーとして定着。 この年は、すべての部門で王貞治の成績を上回っていたにも関わらず、ベストナインに選ばれていません。 83年には広島の山本浩二と共に本塁打王に輝きました。その後、日本ハムに移籍し、2000年から2002年まで監督を務め、2006年の代1回WBCでは打撃コーチとして入閣し、王監督と共に見事優勝に導きました。
近年は、大腸がんを公表し、週刊ベースボールでもコラムを連載していました。
また、一人ドラゴンズのレジェンドが旅立ちました。
合掌。