ドラゴンズ史上最高の投手権藤博

金メダル級の身体能力

鳥栖高校では内野手でしたが、投手がいないこともあり投手に転向しました。

当時から注目されていて、西鉄ライオンズから誘われましたが、社会人のブリジストンタイヤに進みましたが、身体能力が抜群で、他分野からも高い評価を得ていました。東京オリンピックが近いこともあり、もし、陸上選手になっていたら金メダル間違いなしと言われていた程、実際に400メートルハードルに転向して欲しいと要請があったそうです。

1961年にドラゴンズに入団

杉下茂の後を受け、背番号の20を継承。オープン戦で28回3/1を投げ、自責点1で防御率0.31の成績を残すと、農人監督から、「今年は、お前を軸に使っていく」と言われ、抜群の制球力、150キロを超えるストレートと大きく縦に割れるカーブと、シンカーのコンビネーションで打者をねじ伏せました。

投球フォームは稲尾和久

右足をプレートに乗せて、そこから跳び上がるようにして投球が始まる投球フォーム。稲尾の全身を使って投げる投球フォームはもちろんの事、歩く姿、ちょっとうつむき加減に、首を傾けて走る事まで、模写していたという。

練習と言えば、稲尾和久の様に大きく振りかぶって爪先立ちに伸び上がり、かかとの上げ方だけに1時間も練習をしていたという。その為、177センチの長身が185センチくらいに見える。投球に角度がつくため、打者が打ちにくく、直球のスピードも抜群で中日球団史上最速という人は多い。

後に、この2人がドラゴンズで1軍、2軍の投手コーチを一緒にやる事になるのだから野球は面白い。

凄まじい1年目の成績

そして、1年目の成績は信じられない成績を残しました。

130試合中の半分以上の69試合に出場。44試合先発登板。35勝で最多勝。429イニング1/3。この投球イニングは今もNPBの記録として残っています。310奪三振 防御率1.70 沢村賞 新人王も獲得。

当時の心境は、もう一人の自分がいるような、疲れ切ってそれでもがむしゃらに放っている、まるで幽体離脱をした感覚がある。まるでゾーンに入ったような投球…。

そして権藤、権藤、雨、権藤

これは、巨人の堀本律夫が「中日のピッチャーは権藤しかおらんのか、潰れてしまうぞ。権藤、雨、移動日、権藤、雨、権藤や」と記者につぶやいた事から生まれました。

7月4日からは実際に、雨、完封、雨、移動日、完投、移動日、先発(5回)、雨、雨、移動日、先発(5回)と12日間だったことがあったという。

当時は、アイシングなんて言葉はありません。試合後は、逆に肩を温めていた時代。私達も、運動中は水を飲んではいけないそんな時代です。ダブルヘッダーの1試合目に完投し、温水シャワーを浴びてスタンバイして、2試合目にリリーフ登板となんてこともやってのけました。

翌年62年も30勝17敗。362回3/1を投げ、防御率2.33 212奪三振。

どの球種も一級品でしたが、何故か長嶋には全く通用せず、打率448と打ち込まれ、奪三振は0でした。

夢はたった2年で終わりを告げる

しかし、その後は3年で17勝。酷使の付けは大きく影響しました。

晩年は、野手に転向し、67年にはセリーグの最多犠打を記録しました。しかし、投手として残した実績、輝きは取り戻せず、69年に引退。

ドラゴンズ史上最高の投手は実働、わずか9年の短命に終わりました。

しかし、この背番号20は、後年にわたり、ドラゴンズのエースの系譜を引き継ぐことになります。

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