台湾からのパイオニア郭源治

郭源治の噂を聞いたのは、中学校の時でした。当時は、メディアはテレビ、ラジオ、新聞しかなく、中日スポーツでドラゴンズが台湾の若い選手の獲得を検討していると記載してありました。 その選手は、現在、台湾の空挺部隊に所属していて、兵役がすんだら日本へやって来るのと、とんでもない速球を投げる投手だと書いてあり、その記事を読んでわくわくしたのを覚えています。

数千円の所持金で来日

1981年の7月に来日。たった一人で来日し、風呂敷にわずか数千円の所持金を抱えての来日でした。降り立った名古屋空港には球団関係者しかおらず、寂しい来日でした。

この頃、前年から南海ホークスに、同じ台湾人の2人の選手がいました。

左腕投手、高英傑は3勝しか挙げられず、打者に転向していました。李来発は外野手でしたが、いずれも日本のプロ野球では、活躍はできませんでした。しかし、この2人は、後の台湾野球の発展に貢献していきます。

先発初勝利

郭源治の初登板は8月末の大洋ホエールズ戦。最高球速151キロを記録し、先発初勝利を飾りますが、日本プロ野球のレベルは想像以上に高く、すぐにファームへ降格し、基礎からやり直すことになります。日常生活でも、言葉が通じず、食事も合わない、カルチャーショックを受け、初年度は結局その後、1軍へ上がる事は出来ずに、初年度は1勝しか挙げられませんでした。

2年目は先発ローテーションに入り、勝ち星を重ねました。しかし、勝ち運にも見放されて、9勝止まりで新人王を津田恒美に譲りました。精神的に弱く、ここ1番でのピンチに痛打を浴びてしまいます。

そんな気の弱い性格の投手を、青年監督の星野仙一は87年から抑えに転向をさせました。

そして、この抑え転向がハマり、この年は、最優秀救援投手賞、ファイアマン賞を獲得。

郭源治が泣いている

翌年も、ストッパーとして大活躍。優勝を決める地元ナゴヤ球場でのヤクルト戦では、最後のマウンドに立ちました。この年の夏に実弟を交通事故で無くしており、その思いが頭をかすめたのか、目に涙を浮かべながらの投球。テレビの実況では、東海テレビの名物アナウンサー吉村さんが、「マウンドで郭源治が泣いています」と実況して涙を誘いました。

最後のバツター秦真司をシンカーで、見事三振に獲り胴上げ投手となりました。

その年の日本シリーズは西武ライオンズと対戦。このシリーズは残念ながら、ドラゴンズはいい所がなく、黄金期を迎えたライオンズの引き立て役となりました。

しかし、第6戦で投げた郭源治のストレートは151キロを計測。郭源治の速球は常時145キロ~147キロ程ですが、滅多に150キロのボールは投げません。

伊東勤からサヨナラヒットを打たれて負けはしましたが、この西武戦で魅せた速球は物凄く速かった記憶があります。

ベテランの域に入ると、再び先発に転向。変化球を駆使して、先発投手としての投球を確立し、老獪なピッチングで勝ち星を積み重ねました。

こうして、NPB史上6人しかいない、通算100勝100セーブを挙げました。

この郭源治の活躍があり、あとから続く郭泰源、荘勝男、呂明賜、大豊泰明らが来日し、日本野球に旋風を起こします。          郭源治は台湾の野球界の発展に大きく貢献しました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です