遅咲き山本昌の200勝
最高の舞台での大記録
2008年8月4日、ナゴヤドームで歓喜の瞬間が訪れました。
この日行われたジャイアンツ戦、5-1で迎えた最終回。マウンドに立っていたのは山本昌。前年の日本一を決めた夜と同等の、いや、もしかしたらそれ以上の歓喜に包まれていました。
中日の創設9000試合の節目で、相手は宿敵。そして地元名古屋の3万8000人のファンが見守る最高の舞台で運命の時は訪れました。
左腕から投じられた127球目。ラミレスが放った力のない打球はライトへ。右翼手、中村一生外野手が丁寧に捕球した瞬間、プロ野球の歴史に残る大記録が達成されました。史上24人目、42歳11カ月での200勝到達。そして同時に史上最年長完投記録を更新したことこそ、山本昌が見せた投手としてのプライドでした。
歓喜の瞬間、マウンドで高々と両手を上げたベテラン左腕を中心に、苦楽を共にするチームメイトたちの輪が出来ました。もみくちゃになりながらの胴上げには「恥ずかしいんで泣かないようにしていたけど、胴上げの時はうるっときた」と、うっすらと涙をうかべました。
苦いプロ入り初登板
初登板は1986年10月16日の神宮球場でのヤクルト戦。6回の裏、1-5の4点ビハインド、1アウトランナー2塁の場面で、鹿島忠がマウンドを降り初登板を果しました。先頭のブロハードを四球で出すと、広沢克己に3ランホームランを打たれ、その後、三振、中安打、三振で何とかチェンジとなりましたが、5打者に31球を投げて2失点。
翌年1987年も、3試合に登板し1回1/3で3失点で再び1軍で投げることなくファーム落ちをしました。
1988年ドラゴンズはベロビーチでキャンプを張りましたが、開幕を前に山本昌は残留。
そこでスクリューボールをマスター。25試合に登板して、フロリダ・ステートリーグで2位の防御率2.00で13勝7敗の成績を残し、チームも優勝争いをしていましたが、本家ドラゴンズも6年ぶりの優勝を目指し、首位に立っていました。その為に、シーズン終盤に緊急、帰国となったのです。
念願のプロ初勝利
山本昌の初勝利は、1988年8月30日の対広島戦。3-4とリードされた5回から登板して、6回まで投げたその裏に逆転。プロ入り5年目の初勝利でした。
続く9月9日の同じ相手、広島戦で初先発をし、6回まで2安打無失点で2勝目。右打者の外角に沈む、スクリューボールで打者を手玉に取りました。
次のヤクルト戦では、毎回の12奪三振で完封の3勝目。こうして閉幕までに5勝をマークする活躍を見せて、中日の6年ぶりのリーグ優勝に貢献しました。
この時はテレビで観戦していましたが、低めのスクリューボールが抜群で、手を出したくなるコースに見事にコントロールされていました。特に広沢から三振に獲った時は初登板でホームランを打たれているだけに、格別な思いがあったのではないでしょうか。
平成最後の名球会入り
これまでの200勝のピッチャーにプロ入り4年経ってもゼロの投手は誰もいません。18人は1年目に勝利して、2年目が4人です。一番遅かった皆川睦夫でも3年目で勝利。
ちなみに、稲尾和久は4年目までに119勝を上げ、スタルヒンも104勝をしていました。16人はすでに50勝以上していました。山本昌はいかに遅咲きの選手だったのか…。
4年目までに0勝の200勝投手は奇跡的な出来事だったのです。
参考文献 週刊ベースボール 2008年 8月25日号