杉下茂頼みの1954年の日本一

この年の優勝は杉下茂なしでは語る事は出来ません。

今や、まさにフォークボール全盛時代ですが、高校生でさえ金属バットへの対策として多くの投手が投げています。しかし、日本のプロ野球のフォークボールの元祖と言えば杉下茂でした。

明治大学時代に、天知俊一からこの魔球を教わると、その天知が監督のドラゴンズに入団。プロ6年目の1954年にドラゴンズは、黄金期のジャイアンツの4連覇を阻止、球団初の優勝を遂げました。

打倒巨人

エース杉下は86勝のうち32勝を稼ぎ最高殊勲選手となりました。打倒巨人を象徴するように対巨人戦11勝、35イニングを投げ無失点、連続完封もあって、川上哲治、与那嶺要等の強打を沈黙させました。

この魔球、フォークボールは捕手の野口明、河合保彦もミットでは容易に捕れず、体ごと止めに行く変化でした。中でも、4番の川上哲治は21打席、杉下からヒットが奪えず、「捕手さえ容易に捕れないボールが打てるわけがない」と音を上げました。この年記録した273奪三振はそれまで独占していた金田正一を抜く記録となりました。

相手は野武士軍団の西鉄

日本シリーズの相手は西鉄ライオンズ。こちらもリーグ初制覇で、三原監督が就任4年目で作り上げた豪打のチーム。大下弘、中西太、豊田康光らの長距離砲を揃え、134本のチーム本塁打を誇りました。

ドラゴンズのエース杉下対ライオンズの強力打線が焦点となった日本シリーズは10月30日に開幕。

先攻は西鉄。杉下は気負う西鉄打線の今久留主、豊田、中西のバットをかすりもさせず三者三振に退けました。杉下のフォークボールの情報は西鉄ナインに普段着野球からよそ行き野球にさせる効果がありました。杉下はその裏をかいて速球主体で攻め立てました。

杉下は四番の大下弘だけには、思い出がありました。

1949年に杉下がプロ入りした年の4月9日。後楽園球場で大下(当時は東急)と対戦。大下は明治大学の先輩でした。ルーキーの杉下は、1打席目から3打席まで、すべてフォークで三振を奪いました。しかし、4打席目に速球で勝負すると右翼席に叩き込まれました。

あの時以来の対戦。2回表、大下は杉下を強襲する安打を放ちました。しかし、杉下は4回の表、中西からの攻撃をこの日2度目の三者三振。大下はこの回と。7回に2度の三振を喫しました。杉下は8番打者の日比野武にスローカーブをホームランされる失投がありましたが、12奪三振で完投。中日が先勝しました。

第2戦は、中日が5-1で完勝。杉下は6回途中からリリーフに出て無失点に抑えました。

西鉄が第三戦で1勝。中日は杉下で痛い敗戦

杉下の2度目の先発は、平和台球場での第4戦。今度は西鉄打線から反撃を食らいました。4回大下のヒットから始まり、新人の仰木彬に2点タイムリーを打たれ0-3で負け投手。

そして第5戦も連投となった杉下が先発。

初回に中日が1点を先制すると、西鉄も2回に豊田のヒットで追いつきました。そのまま終盤までもつれると8回、9回に中日が1点ずつ追加点。西鉄は最終回に日比野のホームランが出ましたが、杉下が力投し1点差で逃げ切りました。

西鉄は杉下が登板しなかった第6戦を勝利すると3勝3敗のタイとなりました。




一世一代のピッチング

第7戦は11月7日、杉下が5度目の登板。西鉄川村久文との投げ合いになりました。

中日は、ルーキー井上登のタイムリー三塁打で1点をもぎ取ると、天知監督が「大下弘、日比野をマークしろ」とアドバイス。

9回、仰木がバント安打で出塁すると、代打、今久留主のバントは杉下の快速球でファーストフライ。次打者の時に1塁ランナーの仰木がスタートすると、キャッチャー河合の強肩でアウトとなり、最後の打者塚本悦郎はサードゴロ。杉下は、選手に抱きかかえながら、精魂尽き果てたようにマウンドを降り、涙をユニフォームの袖で覆い拭うようにベンチに戻り、歓喜の輪に加わりました。

この日の杉下は、連投の疲れか、フォークボールのスピードがなく、そのおかげか、西鉄打線のタイミングが合わず、まさに神業の投球で、「フォークボールの神様」の一世一代のピッチングでした。

このシリーズは杉下は力投から苦投の末の完封で、初の日本一に輝きました。

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