ウィリーデービスの衝撃
超大物外国人
1977年にやって来た超大物外国人。
2度のメジャーリーグのオールスターに出場。盗塁王、3年連続ゴールドグラーブ賞を取るなど、過去の成績、通算安打、通算盗塁が歴代の外国人の中で最多の超大物でした。
あの、ウィリー・デービスが本当に日本に来るのか与那嶺監督は半信半疑でした。空港までウォーリー与那嶺はスーツ姿で迎えに行きました。すりと、デービスは搭乗後私服で現れました。タクシーに乗り込んだ時に、与那嶺は日本野球の事を伝えると、「俺を誰だと思っているんだ!ウィリー・デービスだぜ。」と言ったそうです。
主力選手だった、マーチンもデービスには逆らえず、パシリのような扱いを受け、薄い髪の毛がさらに薄くなりました。 自身の打撃成績にも影響が出てきて、頭を悩ませることになりました。
奇行の数々
あまりにも実績の凄さ、プライドの高さに監督の与那嶺は、このあと、シーズン中も頭を悩ますことになります。同僚のマーチンもデービスに振り回され、野球どころではありません。春のキャンプでも、毎朝、お経をあげて他の選手を寝不足にし、全体練習には1度も参加せず、風呂は1番先に入り出ると、お湯を全部抜いてしまう。
シーズン中も、塁に出ると相手投手に奇声をあげ、舌を出して侮辱。サインを無視して勝手にプレーをするため、ベンチは作戦を立てられずに与那嶺監督を完全に見下していました。
しかし、デービスは、36歳で全盛期は過ぎていましたが、積極的な打撃、塁間9歩で走るストライドの大きい走塁はまだまだ健在でした。
衝撃の満塁ランニングホームラン
特に語り継がれるのは、5月14日のジャイアンツ戦、7回裏2死満塁での出来事。
投手の西本聖のツーストライクからの3球目を捉えると、右翼二宮の頭上を越え、フェンス迄転がると、デービスは俊足を飛ばし、足の速い先のランナー高木守道のすぐ後を追うように大きなスライドでアッと言う間に、塁間を駆け抜け、スライディングをすることなくホームイン。
そして、西本投手に向って奇声をあげ、膝まずいたまま、祈りを捧げていました。このシーンは当時、生中継で見ていましたが、衝撃的なシーンでした。
しかし、好事魔多し、8月2日の広島戦で、センターフライを捕る際にフェンスに激突し、左手首を骨折、そのまま、帰国してシーズンを終えました。
その間に、若手の藤波幸雄が頭角を現してセンターのレギュラーポジションを獲得したこともあって、チームの幹部、首脳陣もデービス不要との判断。そして、デービスの戦線離脱後はチーム成績も上昇した。その頃、目玉選手が必要だった、太平洋クラウンライターライオンズに移籍しました。
ウィリー・デービスの在籍年数はたった、1年でしたが、歴代のドラゴンズの中では、超大物であり、トラブル続きの記憶にのこる外国人ナンバーワンに違いマりません。
1968年までドジャースのGMを務めたB・バベージはデービスについて後に、こう語りました。
「彼は殿堂入り出来る選手だった。だが、100万ドルの快速をもちながら頭の中は、10セントしかなかった。」