逆転サヨナラ満塁ホームランを2本打った広野功
日本プロ野球で生涯2度逆転サヨナラホームランを打った男は、この広野功しかいません。
最初はルーキーイヤー1966年(昭和41年)の出来事。初めて行われたドラフトでドラゴンズから3位指名を受けて入団していました。大学屈指のスターとして鳴り物入りで入団していました。慶應大学では、あの長嶋茂雄が立教大学で作った東京六大学と並ぶ8本塁打を放っていました。
しかし、春のオープン戦の最後の試合で走者でホームに突入した時に右肩を脱臼しました。
思っていたより重症で、腕を上げようとしたら激痛が走りました。
医師は完治不能という判断
実家に帰り、野球をやめて徳島に帰ろうと言った時でした。母親が目をつり上げて怒りました。「功、腕がちぎれたと言うなら許します。でも、そうでないなら、この家には入れません」
名古屋にとんぼ帰りした広野は、痛みをこらえてスイングしスローイングをしました。いつの間にか打てるようになり、そして投げられるようになっていました。やがて1軍に上がり、代打で初打席初ヒット初打点を記録しました。
ほどなく、主軸を打つようになり8月2日のジャイアンツ戦を迎える。
3対5で迎えた9回の裏、好投の城之内を捉えた中日打線は、2死満塁の好機を作り城之内をマウンドから引きずりおろし、堀内がリリーフ登板。
堀内も高卒ルーキーで快刀乱麻のピッチングで2日前に初黒星を喫したばかりで、この新人から広野は1本もヒットを打っていませんでした。
この堀内とは因縁があり、新聞の企画で退団をしましたが、その時の堀内の大胆な発言が広野の心に突き刺さっていました。「この男には負けたくない」
大事なバットをロッカーに保管
シーズン途中、30本の新品のバットを購入しましたが、1本だけしっくりいったバットを堀内様に大事にロッカーに保管していました。
高木守道がバッターボックスに入るとき、ブルペンで投げる堀内を見ていましたが、カーブがすっぽ抜けてばかりいて、これは真っ直ぐをねらうしかないな、と思いました。
その高木の打球が三遊間を破ると、広野はロッカーに戻ってお気に入りのバットを手にしました。
狙いはストレート1本
初球の高めのストレートを強振するとファウル。2球目は、堀内がキャッチャーの森野サインに首を振ったのでカーブと分かり、見逃して案の定ボール。そして3球目はストレートが来ると確信し、振り抜くと何とも言えない会心の手応えがバットに残る。
打球はセンターの右方向へ飛んで行った。
そして、背走する柴田勲が、捕れそうな構えをする。1塁を回った広野は打球を見ながら「フウフウと息を吹きかけた」という。
そのままバックスクリーン右へ吸い込まれた。見事な逆転サヨナラホームラン。
プロ3年目に広野は西鉄にトレード、そしてその年の暮れ今度は巨人にトレードされました。しかし、いざ、巨人に来ると代打要因。
5月での北陸遠征のヤクルト戦。前日3球三振に倒れていた広野は、5月20日の福井県営場での試合。無死満塁で代打を告げられました。マウンドにはアンダースローの会田。「とにかく振ってこい」と川上監督。
初球の外角低めのストレートを見逃し、2球目の内角低めのボール気味のストレートを、ゴルフスイングの様にふり抜くと、ピンポン玉のようにライトスタンドへ吸い込まれました。
王さんは868本。私は、わずか78本しか打っていません。しかし、「逆転サヨナラ満塁」と但し書きがつくホームランを2本打ったのは私だけです。これが私の誇りです。