竜の初代セットアッパー落合英二
右肘にサファイアを埋め込む
元祖中継ぎエース。第二次星野ドラゴンズ政権の中で、セットアッパーという言葉は落合英二から生まれました。
大学時代は、ドラフト1位指名確実の有名な投手でしたが、大学4年時に右肘の骨折の大怪我をし、指名回避する球団が多い中で、ドラゴンズが斉藤隆の外れ1位として、肘の怪我のリスクがありながらも指名、そして入団しました。
入団後にすぐ、右肘にサファイアを埋め込む大手術を行いました。
しかし、頭角を現すのには4年の歳月が流れました。その間、ドラゴンズOBをはじめとする外部からは、「何で、怪我の選手をドラフト1位で獲ったんだ」との声がありました。 やはり、手術の影響からか、長いイニングを投げるのには不安があり、結果も残せませんでした。
中継投手は敗戦処理?
転機となったのは、宮田征典が投手としてドラゴンズにやって来た頃からです。その頃、宣 銅烈がドラゴンズの抑えを任されていましたが、その前をつなぐショートリリーフの役割を任されました。 その頃、中継ぎは敗戦処理的なイメージを持っていました。言葉の響き自体も良くはありません。 「中継ぎ降格、何で、中継ぎが降格なんだ?」と落合は思っていました。
セットアッパーという地位は落合英二が確立
ドラゴンズがリードすると、8回1イニング限定で落合が投げ、バトンを宣 銅烈に繋ぐ。他にも、サムソン・リー、岩瀬仁紀等が控え盤石なリリーフ陣を形成し、99年、ドラゴンズは優勝。落合は短いイニングで、成功し活路を開きました。 こうして、中継ぎの地位はひと昔前の野球からは脱却し、いつしかセットアッパーという言葉が定着しました。 落合の残した実績は数字でははかり知れません。
ブルペンでのまとめ役
もう一つこの落合英二の功績は、ブルペン内のリーダーとしての役割です。
ブルペンでの周りの投手との雰囲気を良くして、その場の空気を大切にする。コーチと選手パイプ役を担ったり、若手投手にアドバイスを送る。コミュニケーション能力に長け、人に頼られる性格を持っていました。このこともあり、引退後は 宣銅烈 から韓国に招かれ、ヘテタイガースのコーチに就任します。
そして、今年の秋、立浪新監督から投手コーチとして古巣ドラゴンズに戻ってきました。
怪我のリスクを承知の上で獲得
その後、吉見一起、大野雄大と怪我のリスクをありながら、ドラゴンズは、将来を見越して獲得するケースがあります。
これは、落合英二の成功から生まれた長期育成としての獲得ではないでしょうか。しかし、落合政権からこのような将来を見越しての獲得は影を落とし、即戦力重視の社会人中心の獲得ドラフトとなりました。 そして、現在のようなチーム状況となったのです。
かつてドラゴンズには、稲葉光男、高橋三千丈という優秀な投手コーチが長年在籍し、今の投手王国を築き上げました。このまま、落合英二の元、投手王国を継続して欲しいですね。