近藤真一のプロ初登板ノーヒットノーラン

真夏の世の夢

1987年の8月9日の満月の夜の出来事でした。

この日のナゴヤ球場は、いつもよりまして蒸し暑かったのを覚えています。 ドラゴンズの監督は1年目の若き青年監督、星野仙一。                                 ジャイアンツが首位に立ち、追うドラゴンズが肉薄し、ナゴヤ球場で三連戦を迎えこの日は大事な初戦でした。

わずか2時間前に先発を通告

ところが、当時のドラゴンズは今と違って、恐竜打線が売り物で、投手力が弱体で夏場の連戦で、先発投手が底をつき、ピッチングコーチの池田英俊も頭を抱えていました。                                    「1人生きのいいのがおるやろ」と、この日2軍から上げたばかりの、高卒1年目、近藤真一に白羽の矢が立ちました。

近藤真一は、地元共栄高校出身、甲子園でも活躍し、前年のドラフトで5球団が競合。星野仙一が引き当てた、超高校級の期待の左腕でした。この日のゲーム前の、練習中に本人に伝えたと言います。

気迫のピッチング

ドラゴンズの大方の先発予想は、鈴木孝政で、ジャイアンツも、鈴木の先発を読み、左打者を並べてきました。

先頭の駒田の初球は144キロのストレートを投げ込み、2球目はカーブでストライク、三球目のストレートを、見逃し三振に打ち取りました。その時、駒田を睨みつけるような仕草が印象に残っています。                       危なげなく初回を終えると、その裏、落合のホームランなどで、すぐさま3点を取り、その後も、攻撃の手を緩めることなく、ドラゴンズは、この試合6点を取りました。

威力のあるカーブ

近藤は、140キロ台のストレートと鋭く曲がるカーブで次々に、凡打に打ち取り、ランナーは山倉に与えた2つの四球と、二村徹のエラーで出したランナーのみ。                                          快刀乱麻のピッチングをみせ、特にカーブは、空振りを取るだけではなく、打ってもどん詰まりの内野ゴロにしかならない威力でした。                                                     この試合の最後のバッター篠塚和典も、内角にのけぞる様なカーブで見逃し三振に倒れ、見事、NBP史上初の「プロ初登板ノーヒットノーラン」の偉業を達成しました。

あまり知られていませんが、3試合目の阪神戦も、1安打完封の快投をみせました。翌年も、前半だけで7勝を上げオールスターにも出場し、順風万端に思われました。

しかし、突然、肩の故障が発覚し、後半は1勝しか挙げられず、この年は8勝に終わりました。

肩の故障に苦しむ

あの頃の近藤真一は、何故か、6日の登板間隔で投げていました。今では、先発投手が中6日で間隔をあけて登板するのが当たり前ですが、当時は中4日、5日が当たり前の時代で何故だろうと思っていました。

多くの解説者も若いのに、登板間隔を空けすぎではないのか?と疑問を感じる人も多くいました。今思えば、元々、肩に不安があり、どうしても間隔を空けなければならなかったのかもしれません。現に、入団後の春に、岡山の病院で精密検査を受け、通院をしていました。

残念ながら、2年目の8勝目が最後の勝利で、結局生涯でわずか12勝しか挙げられませんでした。

夢の左腕三本柱

もし、ドラゴンズが巨人と優勝争いをせず、近藤を無理に投げさせずにファームでじっくり育てていたら、もしかしたら、90年台は今中慎二、山本昌、そして近藤真一と左腕エースの「夢の三本柱」が誕生していたかもしれません。

今、思うと残念でなりません。

そして、近藤真一は、今でも、スカウトとしてドラゴンズを支えています。

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