投手分業制を確立した近藤貞夫

昭和の野球、いやひと昔前の投手は先発完投が当たり前の時代でした。その常識を覆したのが近藤貞夫でした。

1961年、セリーグを制したのは巨人でした。巨人と優勝争いをして、わずか1ゲーム差の2位が中日ドラゴンズでした。その立役者は、ルーキーの権藤博でした。リーグ最多の69試合に登板して、35勝19敗 防御率1.70で新人王、最多勝、沢村賞を獲得。翌年も30勝を挙げていました。

投手の肩は消耗品

後に、「権藤、権藤、雨、権藤」という流行語を生みだしたほど、酷使された時代でした。

この酷使を、いつも複雑な心境で近藤貞夫は見ていました。権藤は、近藤貞夫が心配していたように、権藤の肩は年々悪くなっていき、成績も3年目は10勝、4年目は6勝と年々落ちていきました。ついには内野手に転向。2年間で130試合を投げ、791回を投げた代償でした。

当時の60年代は、投手が先発完投するのが当たり前でした。どうしても勝ちたい試合だけ、先発のピッチャーがリリーフに回り登板していました。権藤はそうした役割を担っていました。

その頃、アメリカでは、もうすでに投手の肩は消耗品という考えがありました。それに共感した近藤は、投手分業制を唱えました。

2番手で投げる投手は敗戦処理

試合に勝つためには、選手全員で戦おうと言う事でした。権藤のようにエース1人に頼る時代はもう終わったのです。先発投手が降板し、2番手で投げる投手は、敗戦処理という扱いで、当時は、中継ぎ、リリーフ投手は力がない投手という認識でした。

初代ストッパーは板東英二

西沢道夫監督のもと、近藤は板東英二をリリーフ専門の投手に起用しまいた。

板東英二は2年目に10勝、3年目は12勝、しかし、それ以降は伸び悩んでいました。プロ入り以来、ヒジ痛に悩まされていましたが、短いイニングなら無理が効いたのです。そして、頭が良かった事と、昔から口が上手かったと…。 何より、ストッパーとして任されている充実感がありました。

そんな板東は、リリーフ専門投手として、55試合に登板し、12勝5敗、防御率2.25の好成績を残し、前年をすべて上回りました。

8時半の男

しかし、ジャイアンツにはもっと話題になるリリーフ、宮田征典が活躍していました。

8時半の男とよばれ、69試合に登板、20勝5敗 防御率2.07を記録しましたが、長続きしませんでした。何故なら、ロングリリーフ、中抑え、ストッパーの役割をすべて自分でこなしていたからです。これでは分業制とは言えませんでした。

分業制で1974年に優勝

1974年には、エース星野仙一がシーズン前半はストッパーを任され、途中から、若き速球王の鈴木孝政が台頭すると、ストッパーへ起用。そして、歓喜の20年ぶりのリーグ優勝へと導きます。

星野仙一が初代セーブ王

ちょうど、この1974年からセーブの制度が制定され、星野仙一が15勝9敗10セーブで初代セーブ王に選ばれました。この時、近藤はとても喜び、また、それと同じようにセーブ制度が出来た事をとても喜びました。 今からもう40年も前に、近藤貞夫が先駆者として提唱した、「投手分業制」は今では常識となっています。今や、敗戦処理という言葉も少なくなり、中継ぎではなく、ショートリリーフ、セットアッパーと呼ばれています。

もし、近藤貞夫が提唱していなかったら、もし、その時の監督が気の優しい西沢道夫でなかったら、この投手分業制は遅れ、それに伴い犠牲となる選手も数多くいたでしょう。

余談ですが、1974年、この若き速球王、鈴木孝政をストッパーへ育てたのが、当時の2軍投手コーチの権藤博でした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です