フォークボールの神様杉下茂

ご存じフォークボールの神様。
天知俊一に誘われてドラゴンズに入団。

天知俊一は杉下茂の在籍している旧制帝国商業学校の監督をしていました。しかし、この時杉下は4番で1塁手を守っていました。投手は長身であった為に登板した程度で、当時は横手から投げて、肩も弱くスピードもありませんでした。

明治大学に進学すると琴浦でのキャンプで、天知俊一が技術顧問に就任しました。この天知俊一との再会が杉下の運命を変えます。

そして、ドラゴンズの監督に就任したに天知俊一に誘われて1949年に入団しました。

手榴弾投げ競争で肩が強くなった

戦局が悪化し、1944年に入隊。野球をやっていただけで、中隊対抗の手榴弾投げ競争の代表選手に選ばれると、そこで上手から大きく投げ下ろすフォームに改良したところ、速い球を放ることが出来たという。

旅館へ帰る道を歩きながら「スギ、大リーグにペノックという投手がフォークを投げている」と話しを聞き、「人差し指と中指で挟んで投げる。お前だったらほうれるんじゃないか?」と言われ、手ほどきを受け、この変化球に興味をもちました。その後、天知から直接指導が受けられなくなりましたが、大学ではフォークボールの取得の練習を続けていました。

川上だけに投げる特別なボール

捕手の野口明、河合保彦もミットでは確実に捕ることが出来ず、体ごと止めに行くほどの変化球でした。杉下にとって、このフォークボールは打撃の神様(川上哲治)だけに投げる特別なボールでした。杉下曰く、このボールは神様には1度も打たれていないと語り、自分で「よしと思ったフォークボール」を完璧に打たれたのは長嶋茂雄だけだと語っています。

1954年にはジャイアンツ戦に11勝を稼ぎ35イニング無失点で、この年、初のリーグ優勝に貢献しました。

フォークは見せ球

フォークボールは1試合に数球投げる程度で、相手の主力バッターに「フォークボールある」と思わせるだけの見せ球程度でした。

しかし、1954年の日本シリーズでは、フォークボールを解禁。

特に、日本一がかかった第7戦では、疲労蓄積で体がクタクタで参っていましたが、

力を抜いてフォーク投げていた為、西鉄のバッターのタイミングが合わず、凡打の山を築き見事完封勝ちで日本一に輝きました。この試合は投球の半分がフォークだったと語っています。

最後のバッターを打ち取り試合が終わると、捕手に抱きかかえられて、泣いている姿が印象的です。優勝した喜びよりも、プレッシャーから解き放たれた感情が一気に出たのでしょう。

この1954年は杉下にとってキャリアハイで、シーズン32勝 防御率1.39 273奪三振で最多勝。最優秀防御率 最多奪三振 最高勝率 最多完封の投手5冠。

更にMVP 沢村賞 ベストナインに輝きました。

杉下茂は今もドラゴンズOBとして、元気にグランドに現れ、その存在感、そして若手投手への指導ぶりは今も健在です。

参考文献 週刊ベースボール  2001年11月5日号 2005年6月6日号

B・B・M MOOK131 ベースボールマガジン社 スポーツの20世紀

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