山本昌のスクリューボール誕生伝説②
そのボールは野手とのキャッチボールから生まれた
あのスクリューは投げられない
ある日、生原がドジャースの往年の名投手、サンデー・コーファックスに山本のピッチングを見せたところ、「アイク、あのピッチャーはだめだよ。サイドスローにするか、トラックの運転手になるか、どっちかにしたほうがいいんじゃないの」という評価だったという。
3月のスプリングキャンプでフェルナンド・バレンズエラがピッチング練習をするので、見にいかないか?山本はアイク生原に誘われました。
バレンズエラとは、彗星の如く現れドジャースの左腕で、1981年に新人として開幕8連勝を飾り、新人王とサイ・ヤング賞を同時に受賞した伝説左腕です。実際に投球を見たところあまりの衝撃に「あのスクリューは投げられない」と思つたそうです。
運命を変えた試合前の練習
そして、2か月たつた、ある日、試合前の練習の時に、山本のキャッチボールの相手をしていた内野手のメキシコ人、ジョゼフ・スパニュオーという選手が、遊びでシンカーを投げてきました。アメリカの選手は、よく遊びで変化球を投げて来るのです。こいつの球だったら投げられるかもしれない、山本はすぐに投げ方を教えてもらったところ、驚くほど曲がりました。この瞬間、山本の運命が変わりました。
その後、握りをアレンジして、早速、試合で使ったところ決め球として通用しましたのです。必死で練習したとか、取得するために投げ込んだというわけではありませんでした。もし、これが日本だったら、すぐに結果を問われるのですが、しかし、アメリカ留学ではそれも、特に何もありませんでした。向こうのバッターはどんどん振ってくる、そういうバッターから空振りが取れたり、ゴロでダブルプレーが取れました。その繰り返しが山本の自身になったのです。
もし、これが日本だったらどうでしょう。見逃されたり、ミートに徹してきたかもしれません。だとしたら「やっぱりダメだ、やめとこう」という事で断念していたかもしれません。
もし、その時に、名もない内野手がキャッボールで「スクリューを投げてなかったら」、もし「アメリカのファームでなかったら」急造の変化球を試合でいきなりは投げれなかったでしょう。
いくつかの偶然が山本の代名詞、「スクリューボール」を生みだしたのです。
メジャーに行かせればいいじゃないか
その年の、1Aのオールスターに選ばれ、それを見た相手チームの数球団のスカウトが評価。その年メジャーのロースター入りを正式に打診されました。それを聞いた、星野監督は「メジャーに行かせればいいじゃないか」と言ったそうです。しかし、球団社長の反対で実現せず、ドラゴンズがシーズン終盤まで優勝争いをしていた為に、日本に戻ってきました。
神宮球場でのヤクルト戦でリリーフ登板
緻密なコントロール、スクリューボールを駆使し、プロ入り初勝利をあげ、そのまま、5連勝。(いずれも自責点0)
そして、この年のドラゴンズのリーグ優勝に大きく貢献しました。
アイク生原の手紙
当時、山本昌のユニフォームのポケットの中には、いつも、アイク生原の手紙が入っていました。
・初球は、必ずストライクを投げなさい。
・とにかく低めに投げなさい。
・そして勝ちなさい。
この3点が記されていました。
アイク生原が亡くなった時、山本昌は号泣し、しばらく棺から動けませんでした。そのくらい、彼の恩人でした。彼がいなかったら、この特殊左腕の200勝投手は現れなかったでしょう。