山本昌のスクリューボール誕生伝説①

アイク生原との出会い

当時の星野ドラゴンズは、フロリダのベロビーチにドジャースと提携をしてキャンプを行っていました。

ところが、そのキャンプ打ち上げ後、チームは日本に帰国しましたが、山本昌はベロビーチに残されました。実際に空港での、首脳陣、選手たちとのお別れの時、山本は涙を流しました。なぜなら、当時5年目を迎える山本は、アメリカに残されることはその年の戦力外を通告されると同じだったのです。最高球速134キロの左腕は、昨年の暮れにも整理選手として球団がリストアップをしていた程でした。

5年経過して0勝のこのピッチャーがその後、200勝以上勝ち星を上げるなんて、一体誰が予想したでしょう。

この野球留学は、当時、ドラゴンズがドジャースと提携していた為に、誰か、ベロビーチに残さなくてはならない事になっておいたのです。、仕方なく穴埋めにメンバーに選ばれたとされ、星野仙一曰く、5人出してそのうち誰か1人くらい物になればいい、と思っていたそうです。

そしてアメリカに残された山本昌の世話役は、アイク生原(生原昭宏)でした。

2年間休まなかったアイク生原

当時のアイク生原はドジャースオマリー会長の「会長補佐」の肩書で業務を任されていました。アイク生原は、アマチュア野球出身で、亜細亜大学の野球部の監督経験があり、弱小の亜細亜大学を、2部から1部に上げ強豪のチームに仕立て上げた実績の持ち主。野球の指導方法を学ぶために、日本プロ野球誕生設立に奔走した、鈴木惚太郎の紹介で、アメリカにわたりドジャースのマイナーチームで用具係となりました。

雑用から、マイナー選手のスパイク磨き迄こなし、英語も話せず、時には人種差別を受けながら会長補佐まで上り詰めた人物です。その間、2年間は1日も休まなかったそうです。

とにかく毎日山本に付き添う情熱

アイク生原はとにかく野球に熱心でした。とにかく毎日、山本に付き添いました。

山本が登板した試合後には必ず山本の部屋に現れ、この日の投球の反省会。練習、試合、食事にと献身的に山本と接しました。ある日、アイク生原は山本にカーブの投げ方を教えようとし、カーブの必要性を山本に説きました。左投手はカーブが必要だと、但し、「取得まで3年かかる」とアイク生原は言われました。

しかし、山本は言いました。「アイクさん3年経ったらもう、僕はクビになっています」と。

しかし、山本にはプロ野球で生き抜いていくために、何か特徴のある変化球が必要でした。

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