初代ミスタードラゴンズ西沢道夫

182cmすらりとした背丈、大きく丸い目、くっきりとした眉。そして何よりもオシャレだったと言います。

「打席に入る前に尻のポケットからハンカチを取り出し、汗を拭く、汚れの全くない綺麗なハンカチ。いざ打つ段階になると、細いグリップをキユッキュッと締めて息を吹きかける。そのポーズが恰好良かった。」

同じ、ドラゴンズでクリーンアップを組んだ杉山悟外野手が、そのように語りました。

少年に野球を教える西沢選手の銅像 野球殿堂博物館所蔵

15歳で名古屋軍に入団

15歳にして養成選手として1937年にドラゴンズの前身、名古屋軍に入団。                        最初は投手として登板し、初年度は勝ち負け付かず、翌年の38年に初勝利を挙げ、6勝8敗の成績。             オーソドックスなオーバースローから、大きなドロップが武器でした。                         1940年に防御率1.92で20勝9敗を挙げましたが、この頃から、肘の痛みを抱えるようになり、その後打者に転向します。しかし、肘の痛みを抱えながら、42年には球史に残る延長28回を投げ切ったり、ノーヒットノーランを達成したり、投手としても一流だったと言わざるを得ません。

打者に転向

戦前に対戦した、朝日軍の中堅手でプレーイングマネジャーの坪内道典は「打者として鍛えればモノになる」と外野の遠くから見つめていました。

戦後プロ野球が再開した1946年6月、その頃、金星の監督をしていた坪内は、遠征先の門司港の待合室でしょんぼりしていた西沢を見つけると、誘いをかけました。「ウチに来て打者にならないか」                         この、一言でチームの内紛で気が滅入っていた西沢の第二の人生がスタートしました。

ミスタードラゴンズの誕生

1948年に天知俊一がドラゴンズの監督に就任すると、この西沢を高く評価して、坪内と共にドラゴンズへ導き入れ、ここに中日の西沢が誕生しました。                                              早速、25試合連続安打を放つと、この記録がリーグタイ記録。タイ記録の相手が、坪内だったから野球は面白い。そして、気を使ったのか西沢の記録はそこで止まりました。                                    その年の打撃成績は、打率.309  37本塁打 の見事な成績。                              1949年は46本塁打を放ち、135打点。                                        1952年には、打率.353 98打点 首位打者と打点王の2冠王。                                1954年には不動の4番打者として中日の初優勝に大きく貢献しました。

気立てが良くて優しすぎる

15歳で入団した時から、並みいる大人たちから頭一つ抜け出したような、背の高さで相撲力士、出羽獄文治郎にちなんで「ブンちゃん」と呼ばれていました。非情に気の強い面と、気の弱い面と2つの顔を持っていました。引退後は、監督に就任しますが指導者としては成功しませんでした。

釣りをこよなく愛し、釣り専門誌「へら鮒」の表紙を飾った事もあります。海には出かけず、釣り堀で精巧な仕掛けを楽み微妙な感覚を楽しんだと言います。

プロ野球創世記に、投手から打者に転向し、最も成功したのは川上哲治と西沢道夫ではないでしょうか。

1シーズン満塁ホームラン5本は今でも破られていない、NBP史上に残る大記録です。                           そして、背番号15番はドラゴンズの永久欠番となっています。

参考文献 昇竜の軌跡 中日ドラゴンズ70年  ベースボールマガジン社

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